秋吉夕紀 バストショット
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秋吉夕紀

1970年代、空前のボウリングブームの煽りを受けブームが去った今なお足繁くボウリング場に通う両親のもとで育つ。
小学校低学年の頃から週末になると必ず家族で地元のさくらボウルに通った。そこに居る人たちの間には自然と会話が生まれる、そんな温かでアットホームな雰囲気が秋吉は大好きで、このさくらボウルでのボウリング経験は後にも自身に大きな影響を与える。また、ここを拠点に練習していた岡直文プロとはいつしか家族ぐるみの仲になり、揃って基礎からボウリングを教わり始めたことが今日の秋吉のボウリングスタイルの基盤を築いた。

3歳 自宅にて

小学5年生の時、初めてのマイシューズとボウルを両親からプレゼントされる。自分の指に合う、自分のためのボウルとシューズ。それはまさしく宝物だった。自然とボウリング場に通う機会が多くなる。地元の大会や、またテレビ番組のボウリング大会にも出場。勝負というよりも様々な経験を通して大好きなボウリングを純粋に楽しむことが目的だった。

中学校に入学すると陸上部に所属し、短距離走選手として活躍。
中学3年生で千葉県へ引越す直前に出場した大分県陸上大会では県内トップの成績を修める。部活活動でどれだけ疲れていても、そのあとボウリング場へ向かうことがしばしばあった。体を動かすことは勿論好きだったが、何よりボウリングのない生活が考えられなくなっていた。自身にとってボウリング場とはある意味一つの精神安定剤であった。

中学1年生陸上大会にて

高校2〜3年生の2年間はオールジャパンジュニアチームに選ばれ強化合宿に参加。自慢の体力と抜群の運動センスで投球技術を磨いていく。
また高校2年生で出場した国体がきっかけとなり同じく千葉県代表として同大会に参加していた張ヶ谷順子との交流がこの頃から始まる。

高2 千葉県ボウリング選手権大会
にて張ヶ谷と

高2 国体にて

張ヶ谷とはプライベートでも交友がある

しかし、当時すっかりマイナースポーツの代名詞に定着していたボウリング。そんな競技スポーツとしてのボウリングにいつしか気恥ずかしさを覚えるようになり、次第に周囲に隠れて練習を行うようになっていく。
本心ではボウリングに対する愛着は常に持ち続けていたが、他人の目を気にしてしまう思春期特有とも言える微妙な感情の揺れ動きで心の葛藤が続く。しかし、無意識のうちに足はボウリング場へ向かう。「やっぱり堂々とボウリングをやりたい。もっとボウリングがメジャーになれば…。いや、自分がメジャーにすればいいんだ!」そんな思いが芽生え始めた。

全日本新人選手権大会

1学年先輩で当時からその高いボウリング技術で評価されていた張ヶ谷からの強い誘いもあり、2004年、千葉商科大学ボウリング部に入部。学生連合に参加しながら活動の幅を広げる。
大学3年生の時、視聴者の夢の実現をサポートするテレビ番組『九州青春銀行(RKB放送)』を知る。ここ十数年間、ボウリング人口は減り続け、ボウリング場の閉鎖も相次いでいる。そんな現状を秋吉はずっと寂しく思ってきた。「自分が大好きなボウリングをみんなにも好きになってもらいたい!私にその手助けが出来るなら何でもやる。」そんな固い決意のもと『九州青春銀行』の出演が決定。番組でスポンサーを募集するにあたり課せられたこととは、世界中を周り各国のボウラーと勝負する。のちに張ヶ谷の協力も得て、かくして二人は世界に旅立った。そして様々な困難を乗り越え、見事DHCとのスポンサー契約にこぎつけた。

そして、張ヶ谷順子、佐々木優香と共にDHC発ボウリング娘として、ボウリングの普及活動を行う中で、中山律子プロがボウリングブームを起こした時のように、自分を含め後輩たちが第二の中山律子を目指すきっかけを作る手助けが出来るなら、とプロになるべく取り組みを始める。

プロになる決心をしてからプロテストまでの期間は決して十分とは言えなかったが、固い決意はそんな状況をものともせずに、プロテスト受験に於いて課題としていたコントロールの安定性を克服。
2008年、超難関といわれるプロテストで、初受験にして見事、一発合格を果たす。

堂々たるプロ入りを果たした現在、引き続きボウリング普及のための活動と、プロトーナメント初勝利を目指し、目下、ボウリング人生を邁進中。